yumegakureblogの日記

日日是好日…のたりのたりかな

つれづれ散歩 99 江戸という町その1

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今回は、(過去への散歩)という
脳内散歩の話です。

最低100回を目指して、
(つれづれ散歩)を
書いてきた。

今回からは
(つれづれ散歩)の
総決算の意味において、
江戸の町を中心とした話を
書きながら、
100回目を迎えたい❗
と思っています。
        ☆   ☆   ☆
江戸という言葉の意味
からすると、
(江戸)は川を表し、
(戸)は出入口
という事になる

つまり、
江戸とは(川の河口)という事で、
ここでいう(川)とは
(隅田川)を指す事になる。

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この地図は
(葛飾郷土と天文の博物館)
に展示されているものです。

この地図の
下の方の左側の黄色部分が
(武蔵野台地)と呼ばれる高台。

その縁を沿うように流れる川が
荒川であり、
荒川の下流隅田川になる。

江戸城はその武蔵野台地の縁に位置しており、
そこは隅田川の河口にもあたる
位置でもあった。

もう1枚加えて
参考にして見てみましょう。
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この下部の少し右側に隅田川がありますが、
この河口の左側の位置に
江戸城があった。

右下の
(東京低地)と記載された場所には
(利根川)や(江戸川)等が
今の東京湾に注ぎ込んでいた。

関東北部の山から
大量の土砂を
これらの川が
このあたりに運んで きた。

時代と伴に、
海の水が引いていき、
一方では、
幾つもの川によって
土砂が流れてきて堆積した事で
ここに土地が出来た。

おそらく、
最初は、
川と川の間にできる
(三角州)と呼ばれるものだった。

川が蛇行する事で、
色々な場所に出来たものが
繋がって土地らしきものが
構成されていった。

そして、
さらにそれらの土砂は海に
まで達して
遠浅の海を形成したと
考えられる。

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最初に室町時代後期の武将
(太田道灌)によって、
武蔵野台地の縁に平城の城が
建てられた。

これが、
最初の江戸城だと
云われている。

徳川家康が始めて、
この土地に来たのは
まだ豊臣家の家来であった
時期だった。

家康が
この武蔵野台地のほとりに来て
広々と拡がった低地の葦野原を
見た時に
一体、何を感じたのだろうか?

後ろを振り返ると
ススキがどこまでも続く
武蔵野台地が拡がっていた。

ここに住まいを構える以上、
この広大な低地と
この台地を、
何とかせねばならない❗
とは思った事であろう。

家康の目の前にあったのは、
太田道灌が建てた平城は、
既に崩れ堕ちていた。

そこには
僅かに100件ばかりの家が
大手門の北側に
残されていただけであった。

そして、
所々に砂州が見える
遠浅の海が拡がっていた。
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1600年の(関ヶ原の戦い)で、
家康が
石田三成率いる西軍に
勝利して、
天下の大勢を決めた。

そして、
江戸の町は、
1660年ぐらい迄の
約60年の間で
この場所が凄まじい勢いで
開発されていく事になる。

初代家康、
二代目秀忠、
三代目家光、
の徳川家3代の
当主期間であった。

この時期に
江戸城を囲む濠を作りながら、
江戸の町が作り出された。

今の日本橋から銀座にかけては
広大な砂州があり、
(江戸前島)と呼ばれていた。

1603年に家康が
(江戸幕府)を開くと
さっそく町作りを始める。

(日比谷入江)と呼ばれた場所を
(神田山)を崩して埋め立てた。

そして、
諸大名を使って、
山を削ってお堀を造り、
同時に
最初の天守閣も造っていった。

しかし、
この工事には多額の費用が
必要であり、
それを諸大名が請け負った事で
大名が疲弊していった。

(大阪夏の陣)が行われ、
豊臣家が滅び、
徳川家が
天下を治める流れが出来ると
大名の疲弊を抑える為に
後の三年間は
工事が中止された。

三年後から、再び、
徐々に工事が始まり、
最終的に
江戸城及び江戸の町の
工事が終了したのは
1660年の事であった。

この江戸という
町を造りあげるのには、
約60年という
歳月がかかった訳であった。

ここまで
長い文書を
読んで頂きまして
ありがとうございます。
 m(._.)m

ここまで来ると
100回までは
オマケを付けて
いきます。

今回も
怪しい写真は
1枚だけですから、
ヒントはありません😃