千住宿に坂本龍馬って…❓️
江戸時代に五街道と呼ばれる道路が整備されて、江戸を中心とした交通網が出来上がった。
その一つに日光街道がある。日光街道の始点は、東海道のような日本橋ではなく、隅田川を千住大橋で越えた(千住宿)である。
この千住には、今も旧日光街道の跡が残っており、千住市場から商店街が続いていて、古い宿場町の雰囲気が少しだけ味わえる。
旧日光街道から分かれて、西新井大師へ向かう道がある。大師道と呼ばれていて、(千住宿)が出来る以前の古い宿場町がこの通りにあった。
その道沿いと新しく出来た日光街道に挟まれた僅かな場所に残っていたのが、👆️の写真の記念碑と言えるものであった。
その横にはこんな文字が書かれてあった。
[坂本龍馬室 千葉サナ灸治院跡]
こんな場所で、坂本龍馬の名前が出るとは思わなかった。
龍馬が土佐を離れて江戸へ来たのは、剣術修行の為であった。当時、江戸には、(力の斎籐)(位の桃井)(技の千葉)と呼ばれる三大道場があった。
龍馬はその中の千葉道場へ入門した。千葉周作が北辰一刀流を作り上げ、神田お玉ヶ池近くに玄武館を構えていた。
龍馬は入門したのは、周作の実弟の貞吉の道場で(小千葉)と呼ばれていた場所だった。現代では東京駅八重洲方面になる。
この道場で龍馬と深い関り合いがあったのは、
貞吉の子供の千葉重太郎と千葉さなであった。
千葉さなと龍馬は、深い関り合いがあったらしく
龍馬が帰国する際に着物の片袖をちぎって、(さな)に渡したと云われている。
その為に(さな)は龍馬の妻だと思っていたらしい。
それが、[坂本龍馬室]の(室)の意味であり、(正室)と使われる言葉の(室)と同じ意味合いになる。
しかし、坂本龍馬には京都に有名な(おりょう)という女性がいた。日本人で最初に新婚旅行をしたのは
龍馬と(おりょう)だと云われている。
だから、千葉さなと(おりょう)は、仲が相当に悪かったらしい。
[英雄色を好む]とは、よく言ったものですが、私には全く関係ない世界の話ですがね😂
(さな)は龍馬が居なくなった後、学習院の薙刀を教えいた。その仕事を終えた後で、この千住宿へやって来て灸治院を開いたようです。
今でも、この千住の土地に(千葉さな)さんの親族が住まわれているらしい。
司馬遼太郎氏の[竜馬がゆく]を読んだ世代の人としては、何だか懐かしい気持ちになってしまったのです。
[灯台もと暗し]とはこんな事なのでしょうね😃