yumegakureblogの日記

日日是好日…のたりのたりかな

つれづれ散歩 41 神田 お玉ヶ池 玄武館

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江戸時代の終わりの頃、江戸に剣術の(三大道場)があった。
(技の千葉)、(力の齊藤)、(位の桃井)と云われていた。
今回は、その中の千葉道場のあった神田(お玉ヶ池)と言われた辺りへ散歩してみた。

千葉道場は、宮城県気仙沼の生まれであった(千葉周作)が興した。
流儀は(北辰一刀流)。
北辰とは(北極星)のこと。
道場名を(玄武館)といった。
玄武とは、北を守る霊獣のこと。
北極星に因んで名前を付けたと思われる。

剣術指導の仕方に特長があり、(竹刀)や(防御具)を使用して稽古した。
今まで、如何にも神秘的で分かりにくかった剣術というものを、理論的に分かりやすく、一般的にした。
その為、多くの町人等もこぞって千葉道場の門を叩き、当時門下生が三千六百人余りとも云われていた。

(剣術)という(一子相伝)の神秘性のあるものから、同じ剣術で有りながらも、多くの人にも論理的に理解できる点に於いては、今の(剣道)の先駆けになったといえる。

千葉周作の弟の(千葉貞吉)も道場を京橋(桶屋町)に道場を構えた。
土佐の(坂本龍馬)はこの桶屋町の道場に通っていた。
今は、東京駅(八重洲)口方面の(外堀通り)に面した場所になる。
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(お玉ヶ池)という場所が何処に有るのか最初は良く分からなかった。
調べていく内に、神田岩本町辺りに(お玉ヶ池稲荷)という場所があることが分かったので、其所へ向かうことにした。
秋葉原から人形町へ向かう通りの本当に狭い路地にあった。

一度は通り過ぎてしまい、二度目でやっと見つけた。
注意深く見ないと見過ごしてしまう様な所であった。

お玉ヶ池は、
遠い昔、海であった所が海水面の低下に伴い、やがて池として残ったと考えられる。
以前は、(桜ヶ池)と呼ばれていた。
この池の茶屋の(お玉)という娘が、色恋沙汰の末に池に身を投げた。
その後、(お玉ヶ池)と呼ばれるようになった。

その後、神田山を崩して、この池を埋めたと記載されていた。
おそらく、神田用水(今の神田川)を造る時に、本郷台地を削って谷を造り、水を通した。
この事を指すのだろうと思った。
其処で出てきた土砂をお玉ヶ池を埋める際に使ったと思われる。

そして、埋めた跡地に人々が住む様になった。

(お玉ヶ池)は無くなったが地名として残った。

(横溝正史)氏の(人形佐七捕物帖)の主人公は(お玉ヶ池の佐七)親分と言われるらしい。
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門下生には、(浪士組)の山岡鉄舟清河八郎、(新撰組)の山南敬助等がいる。

この中で、役者の様な名前の(清河八郎)について補足してみる。

東北の庄内藩の出身ではあるが、幕末の混乱期に将軍(徳川家茂)が京都へ上洛する時に護衛という名目で(浪士組)を作り、将軍一行の前衛として京都に行った。

当時の京都は、(尊王攘夷)のかけ声の元で、収拾がつかない程、混乱していた。
将軍の安全を考えて幕府は彼等が京都へ行く事を承認したのだった。

京都の(壬生)の(新徳寺)に着いた途端、
(将軍護衛)ではなく、(尊王攘夷)をおこなうと浪士組の前で宣言した。
早い話、(二枚舌)を使って幕府や浪士組の面々を騙していた。

しかし、それに(芹澤鴨)、(近藤勇)、(土方歳三)等が反対した。
そして、その後反対した者達が
(新撰組)を作った。

一方、裏をかかれた幕府側も刺客を使い、その後、清河八郎を(麻布赤羽橋)で暗殺した。

役者の様な名前の人間が、
本当に舞台役者の様に振る舞った。
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そして、
もう一人が弟の(千葉貞吉)の京橋(桶屋道場)にいた(坂本龍馬)。

今の東京で龍馬と繋がりのある場所と言えば、(勝海舟)の屋敷か、(北辰一刀流)の縁のある所くらいしか思い当たらない。
そういう意味においても、是非とも尋ねて見たかった所でもあった。

しかし、実際、此処に来てみると、
路地の中に小さくひっそり佇む(お玉稲荷神社)だけだった。

その場所からは、北に位置する(北斗星)は全く見ることができないだろうと思った。

此処までの
長い文を読んで頂きまして
ありがとうございました。
m(._.)m