yumegakureblogの日記

日日是好日…のたりのたりかな

つれづれ散歩 40 神田川 柳橋

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両国橋の傍、神田川河口に(柳橋)が架かっている。
周りはビルが立ち並んでいるけれど、この辺りは何か古い時代の面影が漂っている感がある。

(柳橋)は橋の名前だけでなく、花街の地名としても用いられていた。
今回は、この柳橋について。

個人的には、この柳橋と言う言葉の(響き)が気にいっている。
江戸時代から明治時代にかけて(花街)として栄えていた場所でもあり、大名や政治家等が遊んでいたと思われる。
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柳橋は、
江戸時代に老中(水野忠邦)がおこなった(天保の改革)により、
(深川)の岡場所から逃れてきた芸奴が移り住んだ事が始まりらしい。

当時、深川は(材木問屋)が軒を連ねていた場所であった。
(喧嘩と火事は江戸の華)と云われた位、火事が多く、木材を大量に消費していた。
その旦那衆が酒を飲んだり、遊んだりする時に、その席に呼ばれたのが(深川芸者)。
(千代田城)から見て、(辰巳の方角)にあたるため(辰巳芸者)とも呼ばれた。

材木問屋の旦那衆は気が荒く、義理と任侠の世界の人々であった。
その(侠)が女性用に変化して、
(オキャン)と呼ばれた。
漢字で書くと(御侠)。

そして、いつしか(羽織)を引っ掛け座敷に上り、男勝りのチャキチャキの話をするような勝ち気な女性のことを(オキャン)と言うようになった。
一般的には、(おてんばな女性)ということになる。

(喧嘩と火事は江戸の華)
とは、どうも深川辺りの事を言っていたのかも知れない。
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やがて、
明治時代になり、
花街界に(新橋)が台頭してきた。

江戸時代には、芸者能楽太夫の名前に因み(金春芸者)と呼ばれた。
新橋は、大名屋敷が近かった為にしばしば利用された。

明治に入り、政治家の(伊藤博文)や(板垣退助)が新興の新橋を非常に利用したのでより華やいだ。

やがて両方の頭文字を取り、
(柳新二橋)と云われた。
しかし、老舗の柳橋の方が格上であった。
合同の時は、新橋芸者は柳橋芸者より三寸下がっており、柳橋芸者が三味線を引き始めないと新橋芸者は引けなかったらしい。
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しかし、
昭和に入り、隅田川両岸にコンクリートの断崖絶壁の防潮堤が造られた事によって、柳橋には人が途絶えるようになった。
防潮堤の為に、隅田川の川面も岸側から臨むことも叶わなかった。
防潮堤は人々から水害は守ったが、柳橋の料亭や芸者達までは守り切れなかった。

1999年(平成11年)最後の料亭(いな垣)が廃業することにより、柳橋は200年に及ぶ歴史に幕を下ろした。

柳橋から秋葉原駅方面にかけて、神田川に沿って(柳原通り)がある。
江戸時代には、この通りに(古着屋)が所狭しと並んでいたらしい。
今では、車の行き交う道になり、そういう雰囲気は無くなった。

只、この辺りから(馬喰横山町)の繊維問屋街も含めて、今でも(アパレル)関係のメーカーが集まっている場所になっている。
これは、この辺りの場所が江戸時代の柳原通りの古着屋からの流れを汲んでいるので、
今でもアパレル関係のメーカーの数が多いのかも知れないと思った。

同じ様に、柳橋界隈は何もかも無くなったが、柳橋と言う(橋)には今も他にはない独特の風情が漂っているような気がした。

どうも困った事に、
どうも私は今は無くなって滅びた物に興味が湧いてくるらしい
という事に最近気付いてしまった。
😵💧

此処まで、
長い文を読んで頂きまして、
ありがとうございました
m(._.)m