yumegakureblogの日記

日日是好日…のたりのたりかな

つれづれ散歩 103 宿場町千住を囲んだ駅跡

20210421_113402.jpg東京の北東部に位置する足立区
に千住という地名がある。

佐倉街道等の起点であり、
宿場町(掃部千住宿)があった。

最近は、
(北千住)駅の方が
有名になっているけれど、
行政区としての
北千住は存在しない。

隅田川を渡ると
南千住駅がある。

だから、千住と名の付く駅は
現在はこの2つしか存在しない。

しかし、過去には他にも
千住と名前の付く駅があった。
20210428_104554.jpg
北千住駅の少し手前に
(大踏切)という踏切がある。

その大踏切を
少し南千住駅方面に
行った所に、
高さが1.6Mしかない
上の写真のような線路下の
通路がある。

人が、少し
かが見込まないと通れない。

実はこの古いレンガで造られた通路の辺りに
(中千住駅)という駅があった。

今の東武伊勢崎線が出来た時の(北千住駅)はこの場所だった。

この北千住駅から久喜駅までが
最初の路線であった。

しかし、
後に民間の日本鉄道が
日露戦争の際の
戦艦の動力源の石炭を
移送する目的と
住民の移動の為に
常磐線を造った。

石炭は、
南千住で船に積み替えられて、
隅田川を下り、
横浜港まで運ばれた。

当時の鉄道能力では、
平地は走れるが、
小高い武蔵野台地
横断する事は出来なかった。

平地の海沿いを走る事しか
出来なかった。
併せて、
国家に手作り造る金は無く、
鉄道開発は民間に
任されていた。

この南千住駅が出来た時に
北千住駅も完成した。

本当は、旧日光街道沿いに駅を建設したかったと思われる。

しかし、
当時は鉄道ができると、
空気は汚れるし、
騒音がうるさい等と
住民の反対があった
と思われる。

その為、旧日光街道から外れた千住の北側に駅が造られたと考えられる。

その時に、
平行する形で駅を造った。

同時に
東武鉄道は浅草方面に伸延して行った為に、
この中千住駅は
やがて貨物駅として
機能するようになった。

今でも、墨堤通りの傍に線路の痕が残っている場所もある。

古いレンガの通路は
今でも利用している人は多いが
過去にあった駅跡だとは
誰も思ってはいないだろう。

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さて、
もう一つは、
西千住駅であった。

上野の山の中に駅を造った時、
そこから出た土砂で
隅田川沿いの一部を埋め立て
宅地化を行い、
人を集める為に駅まで造った。

それが、西千住駅。

しかし、太平洋戦争の時に
不要不急の法律が出来た。

その時に西千住駅は取り壊され
資材は軍事用に使用された。

こうして、
西千住駅は無くなった。

今では、地図上で放射線上に
道が出来ている起点箇所が、
西千住駅があった場所だと
推測する以外に方法はない。

20210428_125027.jpg
最後は、乗客用の駅ではない。
しかし、駅の一つではあった。

今の(足立市場)まで
かつてはJRの
引き込み線があった。

千住大橋を渡り、
日光街道が別れる場所に
足立市場がある。

入り口にある。

江戸時代に千住大橋が出来て
栄え始め、農作物や魚等の
江戸への食べ物の集積所と
なった。

(やっちゃ場)とも呼ばれ、
その流れを受け継いで
足立市場が出来た。

荷物移送が鉄道が
メインの頃には
この足立市場まで
引き込み線が入っており、
多くの荷物が運びこまれたり
出荷されたりしていた、

この足立市場の線路側に
一番近い場所の建物は
昔は
引き込み線の駅の機能を
はたしていた。

上の写真の建物に
平行して線路があった。

つまり、
この建物は引き込み線の
プラットホームでもあった。

しかし、
荷物移送が車に代わり、
引き込み線は廃線になった。

当時の面影は
この建物と
引き込み線の跡しか
残っていない。

この足立市場に向かって行く
(やっちゃ場緑道)
という緩いカーブの道がある。

この緑道は、
その引き込み線があった跡に
出来たものであった。

最後に
余談ですが、
駅の話とは
直接関係ない話です。

少し前に、
フォロワーさんが
この人の名前を出していて
ふと、思い出した事があった。

という歌い手の話です。

彼の歌は私はよく知りません。

しかし、
後輩がよくカラオケで
(卒業)を唄っていたので
名前は知っていました。

1992年(平成4年)、
4月25日の早朝、
全裸の尾崎豊
この辺りの路上で
倒れていたのを住民が
この辺りで見つけた。

直ぐに、病院へ運ばれたが
やがて死亡した。

その後、
花束を捧げにくるファンが
幾人もここへ訪れてきた。

尾崎豊を見つけた住民が
不憫に思い、
ファンを自分の家の一階へ
招き入れたらしい。

それから、
この家は
(尾崎ハウス)と
ファンの間では
言われるようになった。

しかし、
今では家は、
老朽化の為に取り崩され、
何も残っていない。

宿場町千住を囲んだ駅も
姿を消していったが、
どうやら、
人の記憶も同じように
時とともに
いつかは
消えて行くものらしい。



ここまで
長い文章を
読んで頂きまして
ありがとうございます。
m(._.)m