yumegakureblogの日記

日日是好日…のたりのたりかな

つれづれ散歩4 橋場の渡しと千住大橋

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[隅田川、左側向島、右側橋場]

隅田川において(都鳥)が初めて出てくるのは、有名な(伊勢物語)の(東下り)であるらしい。
伊勢物語は、[昔、男ありけり]から始まる在原業平が主人公とされている日本最古の仮名文学の歌物語。
作者不詳、成立年代も不詳。
(東下り)のなかで、その男が、武蔵国下総国の境の隅田川の渡し舟で句を詠んだ。

名にし負(お)はば
いざ言問(ことと)はむ
都鳥
わが思ふ人は
ありやなしやと

後に、この句は言問の句と呼ばれ、言問橋や言問団子の元にもなった。
この句出てくるのが都鳥であり、ユリカモメであったとされている。

江戸時代の(今戸箕輪浅草絵図)には、(都鳥の名所なり)とも記載されている。
場所的には、今の桜橋の少し上流の桜橋中学校がある辺りになる。
その絵図の少し上流に(船渡場向島に渡る)との記載があり、この場所が、(橋場の渡し)と呼ばれていた。
今の白髭橋辺りになる。
伊勢物語に出てくる隅田川の渡しもこの場所だったと思われる。

最初は、今では交通の便もさほど良くないこの場所を在原業平達が何故通って行ったのか、個人的には全く理解出来なかった。

その理由としては、当時と今では地形が変わり過ぎているのである。
平安時代頃は、今の白髭橋辺り迄は東京湾の遠浅の海が広がっていたと思われる。
そして、海に沿ってあった道がこの辺りにあったと言うことになる。

当時は、中国の制度を真似た律令制の仕組の中に(五畿七道)という行政区があった。
(五畿)とは近畿地方を五分割したもので、(七道)とはそれ以外であり、今でも東海道山陽道山陰道等馴染みのあるものもある。
道は、行政区だけではなく、通行する道としても使われた。
今で言う東海道は江戸時代の名残であり、ここで言う東海道は(旧東海道)と言われている。
因みに、行政区としての東海道は今の三重県から茨城県までおよぶ太平洋側の地域であった。
更に、伊勢物語の(東下り)とは、東海道を下るということであった。
余談だけど、明治になってもこの制度が用いられ、北海道が出来た。

この(橋場の渡し)は、この旧東海道の道筋であり、下総国国府に続いていた。
国府とは、当時の国の行政出先機関であった。
この国府から五畿にある中央政府により多くの情報を送る為に、道が整備され、それに伴い、多くの人や物が行き交うようになった。

ここが、橋場の渡しと呼ばれるようになったのは、平安時代の終り頃、(源頼朝)がこの川を渡る際に舟を繋ぎ会わせて橋を作った事に由るものであるらしい。
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川向こうの向島の白髭公園には、隅田(すだ)宿という宿場町もあった。
隅田川に初めて(千住大橋)が架かる迄は、水戸街道佐倉街道もここを通っており、当時のメインストリートの一つでもあった。
更には、この場所は能や浄瑠璃、歌舞伎等で馴染みの(梅若伝説)の場所でもあった。
しかし、千住大橋が出来た事により、水戸街道日光街道の起点が千住宿に移り替わっていく。
当時の千住は、半農半漁で暮らす僅かな住民しかなく、それではとても宿としての機能性は果たせなかったと考えられる。
その為、この隅田宿から多くの住民が千住宿に移り住んでいった。
そうして、やがて有名な千住宿が出来上がっていった。
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[白髪橋]
その後、江戸時代や明治時代を通しても、橋場の渡しは細々と続いていたが、大正時代に入り、民間の募金によって、白髪橋が造られた。
橋は関東大震災を経て東京都が買い上げ、震災復興事業としてこの辺りが整備されたのに伴い、今の橋が新たに造られた。

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