つれづれ散歩4 橋場の渡しと千住大橋
作者不詳、成立年代も不詳。
名にし負(お)はば
いざ言問(ことと)はむ
都鳥
わが思ふ人は
ありやなしやと
後に、この句は言問の句と呼ばれ、言問橋や言問団子の元にもなった。
この句出てくるのが都鳥であり、ユリカモメであったとされている。
江戸時代の(今戸箕輪浅草絵図)には、(都鳥の名所なり)とも記載されている。
場所的には、今の桜橋の少し上流の桜橋中学校がある辺りになる。
その絵図の少し上流に(船渡場向島に渡る)との記載があり、この場所が、(橋場の渡し)と呼ばれていた。
今の白髭橋辺りになる。
最初は、今では交通の便もさほど良くないこの場所を在原業平達が何故通って行ったのか、個人的には全く理解出来なかった。
その理由としては、当時と今では地形が変わり過ぎているのである。
そして、海に沿ってあった道がこの辺りにあったと言うことになる。
道は、行政区だけではなく、通行する道としても使われた。
余談だけど、明治になってもこの制度が用いられ、北海道が出来た。
[千住大橋]
川向こうの向島の白髭公園には、隅田(すだ)宿という宿場町もあった。
更には、この場所は能や浄瑠璃、歌舞伎等で馴染みの(梅若伝説)の場所でもあった。
当時の千住は、半農半漁で暮らす僅かな住民しかなく、それではとても宿としての機能性は果たせなかったと考えられる。
その為、この隅田宿から多くの住民が千住宿に移り住んでいった。
そうして、やがて有名な千住宿が出来上がっていった。
その後、江戸時代や明治時代を通しても、橋場の渡しは細々と続いていたが、大正時代に入り、民間の募金によって、白髪橋が造られた。
橋は関東大震災を経て東京都が買い上げ、震災復興事業としてこの辺りが整備されたのに伴い、今の橋が新たに造られた。