yumegakureblogの日記

日日是好日…のたりのたりかな

つれづれ散歩5 隅田川 都鳥のいる風景

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[桜橋からの、昔の橋場の渡し辺り]

隅田川で言われる(都鳥)は、赤い嘴と赤い足をした(ユリカモメ)。
漢字で表すと、(百合鴎)となる。
この事が記載されていたのは、(伊勢物語)の(東下り)であり、それ以降都鳥はユリカモメとなったらしい。
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白髭橋の西詰の明治道路傍に(対鴎荘蹟碑)が建つている。
この碑は、明治時代の始め頃、当時の太政大臣三条実美の別宅があり、その名前を(対鴎荘)と言った。
この名前は、伊勢物語東下りに出てくる(言問の句)の都鳥を意識して名付けた事は間違いない。
時代は変わっても、風光明媚な場所であり、京都育ちの三条実美はこの景色が京の都に何かしら似ていると感じていたらしい。
あるいは、言問の句と同じ様に、
わが思ふ人
ありやなしや
と思った在原業平と自分を重ねていたのかも知れない。

この頃、明治政府の中で征韓論が巻き起こっていた。
征韓論を唱えた西郷隆盛と其に反対する大久保利通との間に確執があった。
その間にあった太政大臣三条実美は病と称してこの場所で養生を続けていた。
それを心配した明治天皇が、見舞いに来られた。

その後、関東大震災の復興の際に、この建物は聖蹟桜ヶ丘に移された。
今でも、京王バスのバス停に(対鴎荘前)という名前が残っているらしいが、建物は既に無くなっている。
どうも隅田川の都鳥が、この辺りまで飛んで来た事があったらしい。
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[本所高校前の歩道]

森鴎外の本名は、森林太郎
石見藩の津和野の代々続く典医の家系に生れた。
今の島根県津和野であり、(小京都)と呼ばれる観光地でもある。
幼い頃から、勉学に優れ、一族の期待の星であったらしい。
その才能を発揮させようとして、彼が十歳になった時に父親と伴に上京して二人で暮らす事になった。
その場所は、向島小梅村であった。
官制医学校を目指し、ドイツ語を学ぶ為には、この場所はいささか不便
であったらしい。
その為、同郷の西周(にしあまね)の邸宅に寄宿もしたらしい。
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翌年、津和野にいた一家も上京し、
父親が千住の地に(橘井堂森医院)を開設することになった。
同年、彼は第一大学区医学校(東京大学医学部)に二歳年を誤魔化しながらも入学した。

ところで、(鴎外)という名前にも(鴎)の文字がある。
此については色々な諸説があるが、
個人的には非常に気になっていた。
千住の地にあった説明板には、(今の白髪橋辺りに鴎の渡しがあり、その外ということで千住の地を表している)との記載があった。
その時に、(橋場の渡し)の都鳥がふと浮かんだ。
鴎外が最初に住んだ場所が、向島小梅村であり、丁度(言問の句)が詠まれた場所のすぐ傍にあたる。
僅か十歳ではあるが、優秀な頭脳を持っていた彼が伊勢物語を知らぬ筈はない。
ましてや、津和野に残した家族の事を考えると、
わが思ふ人
ありやなしや
の文面が十歳であった自分と重なったとしても過言ではない。
都鳥の外に住んだから、(鴎外)と名前をつけたという方がより自然ではないかと思った。
或は、江戸に生まれた訳ではなく、あくまで津和野の生まれであるという自負心も遠回しに言っているのではないかとも思ったりした。

以上、都鳥の(鴎)から、色々想像してみた世界でした。
[おまけ]
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バス停の名前に住居跡とありますが、それらしいものは何処にも見当たりません。
只、道路沿いに説明板が一枚あっただけでした。
むしろ、バス停の名前を本所高校前と替えた方がバスに乗る人に親切ではないかと思ったりした。

#橋場の渡#桜橋