yumegakureblogの日記

日日是好日…のたりのたりかな

つれづれ散歩 18  隅田川 The change of  times.

DSC_0536.JPG(滝廉太郎)の(花)に唄われる隅田川には清いメージが伴うが、本物はそれほど綺麗な川ではない。
しかし、川岸の遊歩道は散歩するには本当に適している。

そう思うと、この川の成立ちが知りたくなった。

今から、約450年前頃は東京東部地帯は幾つもの川が東京湾に注ぎ混まれていたと考えてられている。

今でこそ、千葉県銚子に流れる利根川東京湾に流れいた。
更には、荒川、渡良瀬川(下流部は今の江戸川にあたる)等の川も同様に東京湾に注いでいた。

これらの川により、大量の土砂が山々から運ばれて、東部低地に堆積していった。
それと同時に、海水面が低下した事により、陸地が形成されていったと思われる。
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450年前と言えば、江戸時代が始まる以前の時代であり、この辺りは主に湿地帯であり、人が住める場所は限られていた。

今でこそ川の護岸工事がされているので、川幅も固定されているけれど、当時は何処までが川であるかが分からない様な混沌とした所であったと考えられる。
単純に今の隅田川の水量と荒川の水量が合わさったものが、当時の隅田川に流れており、川の周辺は野放図状態であり、何処でも川になる可能性があった。

中世時代の終わり頃に、小田原の北条氏が隅田川左岸の丘陵した所を繋ぎ合わせて堤防を作った。
その距離は、向島辺りから熊谷迄に
及ぶ長さであった。
これを(熊谷堤)といった。
地域毎に名前が付けられており、千住では(千住堤)と言われていた。
(つれづれ散歩12参照)

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隅田川左岸に比べて、右岸には、堤防等は見当たらない。

かろうじて土砂が堆積した部分が本郷台地の端辺りから、今の浅草辺りを通り、南千住の石浜辺りまで細長く繋がっていた。
上野台地からこの細長い陸地の間には、海水面が引いた後に残った(不忍池)(姫ヶ池)(千束池)が連なり、千束池には隅田川の水が注ぎ込まれていたと思われる。

そして、この細長く繋がっていた陸地を通り、(伊勢物語)の(在原業平)は隅田川を渡った事であろう。
つまり、ここが(旧東海道)の道筋だった。(つれづれ散歩4参照)

江戸時代の始めに、(箕輪)と隅田川沿いの(待乳山聖天)の間に右岸に堤防が造られた。
これを(日本堤)と言う。
日本堤隅田川に対して、斜線を引く様に形成されている。
これにより、右岸の熊谷堤と左岸の日本堤でハ型の逆の型を造っている事になる。
この型は、瓶に水を入れる漏斗(じょうご、ろうと)と同じ型になっている。

つまり、隅田川で洪水が発生した場合には、日本堤より北側の部分の低地には、わざと川から溢れでた水が溜まる仕組みになっている。
その溜まった水が一ヶ所の出口から、隅田川へ注ぎ込むようになっている。
それにより、日本堤より南に位置する江戸府内を洪水から守っていた。
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この川は下総国相模国の境とされ、両国橋の名前の由来はここからきている。

江戸時代には、江戸府内を守る為に、利根川の東遷事業が行われ、今のような銚子に抜ける川筋になり、更に荒川の西遷事業も行われた。

それでも、水害から東京が守られないために、明治の終わり頃から昭和の始めにかけて、(荒川放水路)が開削された。

1965年政令により、荒川放水路が荒川と名前を替えたのに伴い、分岐点の岩淵水門からの下流隅田川に改称された。
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隅田川の川幅を今の幅に決めたのは、断崖絶壁の防潮堤を造ってからだと思われる。
この防潮堤が両岸に造られた。
その為に、川と人との距離が分断された。
江戸時代から明治時代にかけて、一世を風靡した神田川との合流地点の(柳橋)も隅田川が見えなくなった事により廃業になった。

(江戸)の言葉の意味は、川が海に入る入口とも言われている。

そして、その川の名前は(隅田川)という事であり、この川を攻略することで町も栄えていったと思われる。

ここまで、長い文にお付き合い頂きまして、ありがとうございます。


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