つれづれ散歩 19 遠国 薩摩の主(ぬし) その1
その一つ、鹿児島県。
旧名薩摩の事について。
(薩摩に馬鹿殿なく、彦根に馬鹿家老なし)、と云われている。
(庶子)とは、本妻以外から生まれた子供という事になる。
因みに、本妻の子供は(世子)と言われる。
その後を東軍の軍勢が何度にもわたって、追撃を繰り返していった。
当初、義弘の軍勢は800人余りであったが、何とか紀伊半島の山の中を通り抜け、堺港から船に乗ってやっと薩摩にたどり着いた。
その時の軍勢は80人足らずであり、如何にその逃亡劇が苛酷だったかがその数値が物語っている。
後に、(島津の退り口)と言われ、全国津々浦々に広まった。
更には、義弘は秀吉の朝鮮派遣の際も、その戦い方の激しさに敵の中国、朝鮮側にさえ石曼子(シーマンズ)として恐れられていた。
義弘は、別名(鬼島津)と言われ、戦国の諸大名からも恐れらた。
薩摩国はシラス台地と呼ばれる火山灰で覆われており、作物は育てにくい環境であった。
その為、人を育て上げるという家風が出来上がったらしい。
人というもので、薩摩国を支えて行こうと考えていった。
例えば、関ヶ原戦いの後の事。
藩一体となり、外交上のあらゆる手段を使いながら、徳川家と交渉し続けて、薩摩藩の土地を少しも削る事なく存続させる事に成功した。
それは、全て薩摩国の人がおこなった結果でもあった。
そして、もう1つ薩摩国にあるものは、目の前に拡がる(海)である。
江戸や京都の日本の中心地からは遠国にあたるのだけれど、外国からは最も近隣にあたる藩の1つと言えた。
海の向こうには、琉球国や中国等の諸外国があり、(貿易)という商いが成立していた。
それを行う事で(お金)も入ってきたが、それ以上に多くの海外の(情報)も入ってきた。
貿易の業務を実施するのは、全て人であり、外国人と交渉するのは並大抵の事ではなく、優れた交渉術も必要になってくる。
焦らず、慌てず、ゆっくりと時間を掛けながら、更にはなるべく相手に信用されるような惜しみない努力し続け、それでいて自分達になるべく有利になるように持っていく、という手順を踏んだ筈だ。
そう言う意味で考えると、関ヶ原戦い以後の徳川家との交渉も外国人と交渉するよりも、彼等にとっては案外容易だったのかも知れないと思ってしまう。
家康は関ヶ原戦いの後に島津を討伐出来きれなかった事が心残りであり、遺体を薩摩の方角に向けて葬るように遺言を残したとされる。
そんな色んな事を想いながら、三田の薩摩屋敷跡までたどり着いた。
私の悪い癖でもう少し長くなりそうなので、一度休憩を入れます。
ここまでの長い文を読んでくれて、どうもありがとうございました。
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