つれづれ散歩 21 隅田川 最初の橋
つれづれに散歩していて気付かされたのは、江戸という町が構成される時に、重要な出来事が2つあったのはないかと個人的に思った事だった。
その内の
2つ目には、明歴の大火(振袖火事)の出来事。
今回はその千住大橋について。
千住大橋完成の前後を年表風にすると、
1590年 徳川家康、関東移封。
1594年 千住大橋完成
1600年 関ヶ原の戦い
1603年 家康、征夷大将軍になる
1614年 大阪冬の陣
1615年 大阪夏の陣
その事から考えてみると、まだ天下の情勢が定かでない時期にあたる。
それからすると、
1つ目は、西から攻められた時の逃げ口としての役割が浮かぶ。
豊臣方は大阪におり、仮に攻めて来る場合は西方面からになる。
その時、戦に破れた場合は撤退は北もしくは北東方面になると予想される。
しかし、城の北側は武蔵野台地から伸びた本郷台地が拡がっており、高低さがある為に逃げづらい。
その点、低地だと移動しやすく、逃げやすい。
更に、遠くに迅速に移動する為に橋を架けたと思われる。
橋を渡りきっり、その後で橋を破壊すれば、その間時間が稼げ、更に先に逃げる事ができる。
2つ目には、当然ではあるが、食糧の確保や町を造る為の材料の確保の目的があったと考えられる。
3つ目は、迅速な情報を得るための北方面の街道の整備の意味合いもあったのではと考えられる。
西方面の街道の整備に比べて、東北方面の街道整備は遅れていたと思われる。
特に、仙台には(伊達政宗)が生きており、家康としてはこの方面の情勢収集は欠かせなかったのではないかとも考えられる。
さて、次はどうしてこの場所に橋を架けたのか?という事になる。
これは、はっきり言ってどうしても分からなかった箇所であった。
そして、気付いたのが逆にこの場所しかなかったのではないか、という事だった。
かろうじて、本郷台地から繋がった陸地が浅草、石浜辺りに迄連なっており、上野台地とその陸地の間は隅田川の水が流れ込んだ沼地や湿地帯であったと考えられている。
その右岸は細長い岬のような陸地の先がこの千住大橋の架けられた場所であったと想像した方が分かりやすかった。
所謂、岬の先端部に橋を架けたという事である。
対岸の千住も半農半漁の僅な人しか住んで居なかったが、ここも細長い陸地があり、周りは低地の葦野原であったと思われる。
その先には、木々に覆われた西新井大師があっただろう。
併せて、この場所の川幅が他の所より狭まっていたとも考えられる。
尚更、海水が河口から上がるギリギリの場合であり、川から流れる真水と混ざる所であったのではないかとも思う。
橋を造る際に必要な留め具としての金属部分が塩水にあたるよりは錆びにくいのではないか、とも考えられると思った。
最後に、千住大橋完成後に変化として表れた事。
今の東白髭アパート辺りに[隅田(すだ)の宿]があったと思われるが、千住大橋完成に伴い、そこに住民が(千住)に移り住み、宿を始めた。
千住に元から住んでいた人達は僅かであり、半農半漁の生活を営んでおり、宿場等をやりくりする力は彼らにはなかった。
これが(千住宿)の始りとなった。
関西方面だけでなく、東北方面にもより多くの人の行来が増えていく事になった。
それに伴って、千住は米、野菜等の食糧品の(集積場所)として栄え、ここから江戸府内に食糧を提供していった。
所謂、(やっちゃ場)といわれるものが出来ていった。
次には、浅草、入谷、箕輪辺りの農民の要望で湿地帯を農地に替えて欲しいとの強い要望があり、いつ工事が行われたかは定かでないが、徳川秀忠の時代に(日本堤)が完成し、隅田川からの水被害から土地を守ると伴に沼地や湿地が田畑の土地と変化していくきっかけとなった。
そして、山谷堀は千束池の水の排出口として機能していたらしい。
こうして、浅草の裏手辺りから上野台地辺りまでの風景が変わっていく事になった。
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