yumegakureblogの日記

日日是好日…のたりのたりかな

つれづれ散歩 83 備後の浮城

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(過去への散歩)と称する脳内散歩のランダムな続きになります。

明治時代までは
岡山から広島に至る場所は、
備前国(びぜんのくに)
備中国(びっちゅうのくに)
備後国(びんごのくに)
安芸国(あきのくに)
と云われていた。

元々、(ヤマト朝廷)が出来た頃に、
(出雲国)(筑紫国)などと朝廷を支えた[吉備国(きびのくに)]であった。
別名を、備州(びしゅう)。

律令制度の時代に
(五畿七道)といわれる行政区分の
一つの(山陽道)になった。

以前にも記載しましたが、
(道)というのは
今の行政区の(県)という単位として考えてよいのかも知れない。
単に、道は
(道路)という意味だけではない。

余談ですが、
(北海道)は明治になって明治政府が律令制度の(道)という行政区の概念を取り入れて付けられたものです。

(五畿七道)については、以前記載したものを添付しておきますので
興味のある方は参考にして下さい。
山陽道になった時に
(備前)(備中)(備後)と
三つに分かれた。
今でいう(市)ということになるのでしょうか。

平安時代には、
備後のことを
(きびのみちのしりのくに)
と読んだと書物に記載されている。

現代ではざっくり言えば、
岡山県が(備前)と(備中)にあたり、
広島県が(備後)と(安芸)になる。

(日本三景)で有名な(宮島)が
と呼ばれるのはそのためである。

今回は、
瀬戸内海の丁度中央部位置する
昔は(備後国)と呼ばれたあたりの
話になります。
PAP_0019.JPG戦国時代、中国地方の大半は
(毛利元就)が支配していた。

毛利元就には三人の男の子供がおり長男の[隆元(たかもと)]
次男の[元春(もとはる)]
三男の[隆景(たかかげ)]であった。

隆元は毛利家を継いだ。
父親の毛利元就の意向により、
次男の元春は(吉川家)に、
三男の隆景は(小早川家)に
政略結婚で養子に入った。

次男の元春は積極的、攻撃的な性格であったらしい。
三男の隆景は逆に思慮深く、慎重な性格であったと云われている。

二人の苗字の川から取って
(毛利両川)とよばれ
本家の毛利家をもり立てた。

毛利家の有名な言葉で
(三本の矢)の話がある。

一本では折れやすい矢でも、
三本集まれば折れにくい

という話はこの三人の兄弟が元になってできた話になる。

因みに、広島のサッカーチーム
の名前は
サン=日本語の数字の(三)の事。
フレッチェ=イタリア語で矢の事。

この逸話から付けられた。             
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1582年に本能寺の変がおきて、時代の流れが信長から秀吉に替わった。

その時、
今後の毛利家の取る方針が
元春と隆景の兄弟で意見が割れた。
しかし、
最終的に隆景の意見が毛利家の方向を定めた。

その年に、
隆景は三原に城🏯を完成させた。

その城は、
海から見ると
まるで海🌊の上に
浮いているように見えた。

その為、
原城🏯は
[浮城(うきしろ)]と呼ばれた。

隆景は瀬戸内海の有名な(村上水軍)とも懇意にしており、
更に自らも(小早川水軍)と呼ばれるものを持っていた。

毛利家の海上
いわば瀬戸内海の海を制していたのは、小早川隆景の持っていた水軍力であったと言っても過言ではない。

秀吉が天下を取った後、
秀吉は東を家康に任せ、
西を隆景に任せた。

秀吉の信任が非常に厚く、
家康や利家と共に
(六大老)にもついた。
しかし、
途中で隆景が死んだために
(五大老)となった。

後に、
(天下分け目の関ヶ原の戦い)で
西方の敗因となったのは、
(小早川秀秋)の裏切りが主な原因であったとされている。
この時既に、隆景は死んでいた。

隆景が秀吉の要望を受け入れながら
一方で
毛利家を存続するための方法として
自らの小早川家を犠牲にしながら
向かい入れた養子の人であった。
PAP_0007.JPGこの浮城の正面に
(筆影山)という山がある。

(瀬戸内海国内公園)の(しまなみ)が
一望できる。

城🏯の正面にあるということは、
隆景の事だから、
この山の上に見張り小屋を作り、
異変があれば、
直ぐ狼煙を上げて城に
連絡をしていたとも考えられる。
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(山頂からの景色。これは、グーグルからの写真を参考にしてます)

外国人が初めて瀬戸内海を見た時、(Island Sea)
と言ったという海である。

太平洋とも日本海とも
異なる独特の(しまなみ)の海が
拡がっている。

島が近くに見えるから、
安心感があるが、
それだけ
海水の通り道が狭くなっている為に潮の流れが早いし
流れが読みにくい。

この島々の間を流れる潮の癖を
熟知しない限り、
海上制圧できる水軍を持つ事が出来なかったに違いない。

その後、
隆景が造り上げた
(浮城)と呼ばれた自慢の城🏯も
明治に入って
鉄道を通す為に壊された。

今では
僅かに城の石垣の跡が
駅の横に見えているだけである。

隆景が死んだ‼️
との訃報を
(黒田如水)が接した時に
これで日本に賢人はいなくなった
と嘆いたとも云われている。

※ここで使用した石垣と筆影山の写 真は、過去に撮影したものです。


此処まで
長い文を
読んで頂きまして
ありがとうございます。
m(._.)m