つれづれ散歩 9 おそれ入谷の白洋館
[真源院の鬼子母神]
江戸時代以前は、上野台地を除いて、東部低地は全て海であった。
やがて、荒川や利根川によって一部は土砂が堆積されていき陸地化していったが、その当時は(千束池)や(姫ヶ池)と言う池の形で残っており、その周辺は広々とした湿地地帯が拡がっていた。
[おそれ入谷の鬼子母神]
この言葉はこの土地を指している。
(恐れ入る)の(入る)と(入谷)をかけている(言葉遊び)になっている。
[旧陸奥宗光邸宅]
明治時代に建設されたと言われる白い洋風の建物に多くの蔦が絡まってはいるけれど、今もこの建物には人が住まわれているらしい。
この建物は、明治時代の一時期(陸奥宗光)の邸宅であった。
やがて明治になり、彼は維新の軸であった薩摩長州以外の藩出身だった為、当時の政府に不満が溜まり爆発し、激昂の余り東京を去って、和歌山に帰った。
この家は、出所後に購入し、彼自身も明治19年から20年の1年余りはここに住んだということだ。
丁度、日清戦争の始まる前で、在日中の各外国人の安全を保証する事を条件に日本を文明国家と認めるようにと迫り、強引に条約改正を成功させたらしい。
後に、小村はもう一つの不平等条約であった(関税の自主権の回復)の条約改正をおこなう事になる。
どうも親分肌ではなく、その度量もなかったのかも知れない。
(カミソリ大臣)とも呼ばれたらしいが、切れ味は良かったが、相手に致命傷を負わせるほどの力はなかったと思われる。
そういう意味でいえば、やはり処理能力の高い実務派のNO2が定位置の人だったのかも知れない。
後に、今の北区の(古河庭園)が陸奥の住いとなった。
この場所が町内的に(入谷)かと言われると、そうではない事は充分承知はしているけれど、同じ(下谷)と呼ばれた地域でもあり、この白い洋風の建物を見ると、やはり口に出してしまう。
[余りにも緑が映えた上野不忍池]
(あとがき)
この陸奥宗光邸宅がある場所は、一般民家の傍であり、またこの屋敷に人がお住まいであることから考えまして、皆さま方の大勢での押し掛けや大声を出される事につきましては、何卒ご遠慮下さる様に宜しくお願い致します。