yumegakureblogの日記

日日是好日…のたりのたりかな

つれづれ散歩  12  大川の川向こう

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[桜橋オブジェと向こう正面は向島]
諸説は色々あるけれど、浅草側から見ると、隅田川の向こうにあたることから向島と呼ばれる様になったというのが、個人的には一番分かりやすい。
江戸時代、隅田川は(大川)とも言われていた。
本来は、吾妻橋より下流の事をそう言っていたらしいのですが、ここではあえて使わさせてもらいます。
川向こうの言問橋か桜橋辺りまでの範囲が(向島)と呼ばれている。
江戸時代は向島の(小梅村)だった。
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浅草側から言問橋を渡って、左側の最初の通りが(見番通り)。
待合茶屋(置屋)、料理屋(料亭)、芸奴屋(芸者)の三業組合の事務所を(見番)という。
その見番がある通りになる。
花街柳巷、略して花柳界
元々は遊廓を指していたが、今では芸奴屋が集まる所をいうそうな。
人形町でも最初そう思ったのだけど、町の匂いというか感じが若干他の町と異なる感じがする。
何かしら艶やかさが漂っている様な気がするのだ。
現在東京では、新橋、芳町(日本橋人形町)、赤坂、神楽坂、浅草、向島の六ヶ所に見番があるらしい。
以前は、柳橋が入っていたが、柳橋が廃業したことによって、新たに向島が加わった。
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見番通りの小梅小学校を越えた所に、[三囲(みめぐり)神社]が左手に見えてくる。
元々は、田んぼの中にあり(田中稲荷)と呼ばれていたらしい。
その後、再建する際に一つの壺が出てきた。
その中に白狐に跨がった老翁の神像があり、やがていつの間にか出てきた白狐がその像の周りを三回まわったらしい。
それで、三囲という珍しい名前が神社に付けられた。
江戸時代の稲荷神社の中で、一番人気は(王子稲荷)、二番三番をこの(三囲稲荷)と橋場の(真崎稲荷)が隅田川を挟んで競っていたらしい。

江戸時代中期、伊勢の商人であった(三井高利)が江戸に来て、日本橋で(越後屋)を開店した。
越後屋は、後の日本橋(三越)。

その後、三井家と三囲神社は深い結びつきを持っていくようになる。
理由としては、一つには三囲神社の位置が日本橋越後屋の鬼門と言われる東北に位置していた事。
もう一つは、三囲神社の(囲)という文字が三井の(井)を囲んでいる事等から、三井家を守ってくれるという信仰に繋がった事。
これらの事により、三井家の(守護神)として祀られる神社になっていった。
その為、池袋三越閉店後に店頭に飾ってあったライオン像が今は境内に寄贈されていたりもする。
更に、銀座三越の屋上には、この神社の社務所も設けられている。
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三囲神社の先に行くと左手に少し大きな空間が出てくる。
道路ではあるが、道路というより広場に近い。
(桜橋通り)の隅田川沿いの突き当りは、この様な急勾配の階段になっており、この階段を上りきると(桜橋)に繋がっている。
更には、この階段下を墨堤(ぼくてい)通りという道路が通っている。
そして、その頭上には、首都高速道路向島線が走っている。
非常に狭い空間に色々なものが、詰まっている。
それと対比してこの何もない広場のような道路が、不思議な所に思えてくる。
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[白髭神社前の旧墨堤]
墨堤(ぼくてい)について。
隅田川の左岸は、小田原の北条氏がこの辺りを管轄した時に、自然の高い所を繋ぎ合わせて熊谷迄に及ぶ(熊谷堤)を造った。
その後、江戸時代の徳川吉宗の頃、より堤を強固にする為に、堤の両脇に桜を植えていった。
というのは、沢山の人々が訪れて、堤を歩く事でより堤をより強く固めていくのを目的とした。
それ以降、春になるとこの桜目当てで多くの人が訪れた。
それ以降、墨堤と呼んだ。
この名前は、現在の墨田区の名前にも使われている。
当時の(旧墨堤)は、今も(白鬚神社)横に通りとして残っている。
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更に先に行くと、江戸時代から続く、有名な長命寺の(桜餅)。
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同じく、明治の始めに在原業平の(言問の句)から名前を付けた(言問団子)。
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更には、今のスカイツリーの傍で生まれ育ち、後に一本足打法で世界のホームラン王に輝いた元(ジャイアンツ)の(王貞治)氏が少年時代に野球をしていた(墨田公園少年野球場)もある。
王貞治氏は、現在は(ソフトバンクホークス)の会長でもある。
この球場は、言問団子の横にあり、墨堤通りに面して今も残っている。

大川の川向うの向島小梅村辺りの川沿いは、随分と変わってしましたが、今も緑の木々は昔のままに繁っている。


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